MEDIA

2015.02.24

『GQ JAPAN』(2015年4月号)で、チームラボ猪子の連載。

連載「日本、アジア、そして21世紀 拡大版」
第二十回「近代以前の知、古来の日本の空間認識 (後編)」


チームラボの代表・猪子寿之が、変わりゆくメディア環境を思索する人気連載。日本古来の固有の空間認識について。

 

近代以前の古来の日本の空間認識=超主観空間(※)の特徴について、2回にわたり取り上げました。「世界の見え方」が、「世界に対するふるまい」に関係しているのではないかというお話をもってまとめとします。

日本古来の空間認識=超主観空間による平面(絵画)は、「鑑賞者中心に鑑賞する」ことができます。鑑賞者は絵画を全体で眺めるだけでなく、一部分を見ても、その一部分の空間にみずからが入り込んでいるかのような意識を持つことができます。つまり、超主観空間の平面は鑑賞者次第で、自由に「分割」できます。分割した絵画を見ているときは、その部分が表している空間の中に鑑賞者が想像上ですが身を置くことができるからです。分割できるということは、「折る」ことも可能にします。西洋の遠近法の絵画や写真では、「折ったり、分割したり」することはありえませんが、日本美術ではよくあることです。屏風は、折ることを前提としたキャンバスですし、ふすま絵は、分割することが前提となっています。(図1)

そして、前回お話したように空間の一部を細かく認識した平面をつなぎ合わせた平面と、その空間全体を認識した平面が同等になるということは、分割した平面を新たに自由につなぎ合わせることで、画家が描いた空間とは別に、架空の空間を自由に創ることもできるということになります。

以上が前回から続いた超主観空間による平面の特徴です。 さて、前回説明したように、超主観空間によって構成される平面の場合、絵画を見ながら、絵の中の登場人物になりきったとしても、そのまま絵を見続けることができます。つまり、「絵を見ながら、絵の中に入り込む」ことができるのです。ということは、むかしの人々が、超主観空間で世界を見ていたならば、自分が見ている世界の中にいる人になりきって絵の世界を眺めたり、自分が見ている世界の中に自分がいたりすることができるということになります。


一方、西洋の遠近法による絵や写真の場合、絵や写真を見ながら、絵の中の人になりきることはできません。西洋の遠近法や写真のように世界を見ているときは、そこに描かれている世界の中の人になりきったり、見ている世界の中に自分がいたりすることはできないのです。

 そう考えると、「世界の見え方」と、「世界に対するふるまい」との間のつながりについて、新しい見方ができます。


むかしの日本の人々は、自然とは観察の対象ではなく、「我々自身も、自然の一部である」かのようなふるまいをしていました。彼らは、自分が見ている世界の中にいるモノになりきったり、自分自身がいま見ている空間世界の中にいたりするように感じたからではないでしょうか。超主観空間的に世界を見ると、自分と世界との境界がないような感覚になりやすいのです。だから、まるで「我々自身も、自然の一部である」かのようなふるまいをしていたのではないかと思うのです。

西洋の遠近法による絵画や写真のように世界を見てしまうと、本人と、本人が見ている世界が完全に切り分かれます。本人が見ている世界に本人は存在できず、世界は、観察の対象となります。だからこそ西洋人は、サイエンスを発展させたのではないかと思うのです。

今、「我々は、世界の一部である」と、声高に唱えられています。そして、人々は、そのことを十分に頭では理解しています。しかし、人々のふるまいは、まるで、自分と世界との間に、境界線がはっきりとあり、世界は、自分がいる場所とは違う世界であるかのようです。なぜでしょうか? 現代は、多様なメディアを通し、西洋的な遠近法による写真や映像などが溢れすぎています。それゆえ世界をあまりにも写真と同じように眺めてしまい、世界を自分がいる場所とは違う世界であるかのように振る舞ってしまうのではないだろうか、そんな風にまで思うのです。

 

※猪子氏が唱える超主観空間とは、西洋の遠近法とは違った、古来の日本の空間認識のこと。


GQ JAPAN(2015年4月号/コンデナストジャパン)
2015年2月24日(土)

お問い合わせ

制作のご依頼・ご相談・お見積もりはお問い合わせください

お問い合わせ

採用

エンジニア、ディレクター、デザイナー、アルバイト募集中

採用について